母が進行性核上性麻痺(仮)→大脳皮質基底核変性症(仮)になった

1960年生まれの母が突然難病を発症してからの記録

ダラス空港での大事件

2017年の2月に、まだ元気だった母と私はフロリダディズニーに行ったんだけど、その乗り継ぎのダラス空港で大変なことがあった。

 

米国に旅行に行くには、ESTAの申請が必要なのは知っていたので、私は事前にネットから母と私の分の申請、料金の払い込みを済ませていた。

空港に着くと、ESTAの審査(たぶん…?今でもよく分かっていない)に長蛇の列。親子揃って並ぶものかと思いきや、なぜか母は免除され、審査のゲートを抜けたところで待つように言われた。訳も分からず引き離される母と、どんどん進む列に飲み込まれる私。「とりあえず出たところで待ってて」と母に言い残した。

 

すさまじい人の数で、こちらから母は見えないし、向こうからこちらも見えない。それに、進みは異常に遅い。それでも、一応母に待つように言ってあるし、馬鹿みたいに待たされることは海外ではよくあることだから、気長にガイドブックでも読みながら待とうか…と思って数十分経ったころ、

 

「ゆみちゃーん!!!!!!!!」

 

母の叫び声が聞こえた。

 

慌てて辺りを見回すと、列の人混みをかき分けて、空港職員のおばさんに付き添われながらやってくる母の姿。今にも泣き崩れそうな様子で、というか半分泣き崩れて、よろよろとこちらにやってきた。

周りは東京から到着した人ばかりなので、私の名前も状況もばっちり知れ渡ってしまった。驚き動揺する周囲の人々、張りつめた空気。

 

空港職員の方が付き添ってくれていたのが、本当にありがたかった。

英語も満足に離せない母は、一人で待たされ、通りすがりの空港職員を何度も捕まえて私がどこにいるのか聞いたらしいが、どの人も「とりあえずここで待て」しか言わず、段々不安になっていったらしい。

最終的に付き添ってくれることになった空港職員のおばさんが「my daughter... my daughter...」とパニック寸前になっている私の母を見かねて、人混みを縫って私のところまで連れて来てくれたらしい。

 

母が心配性で、過保護で、精神的に弱くて、というのは知ってはいたけど、まさかこんな大騒ぎを起こすとは……私もパニック、茫然、怒り、恥ずかしさ、いろんな状態や感情が混ざって、母に声をかけてなだめ、空港職員のおばさんに平謝りし、自分自身を落ち着けるのが精いっぱいだった。

 

その後の疲労感といったら!

到着早々こんな大事件が起こって、このあとの日程は大丈夫なのか…とぐったり。

 

滞在中は私の体力が無さすぎること以外にはトラブルもなく、平和に過ごせたのだけど。

 

サークルの演劇発表会のカーテンコールで客席から私の名前を叫んだり就職先のオフィスを見に来たり、もともと過保護な親だったので、これもその一環として受け止めていたんだけど、今思うと、これも進行性核上性麻痺の認知症状の一部だったのかもしれない。