母が進行性核上性麻痺(仮)→大脳皮質基底核変性症(仮)になった

1960年生まれの母が突然難病を発症してからの記録

フラ発表会

今日は、母が数年前まで通ってたフラ教室の発表会へ。

 

週一回、近所の文化センターで開かれているフラ教室に母は通ってた。私に似て(というか私が母に似た)真面目で完璧主義なところがあるので、家に帰ってきても鏡の前で練習してた。衣装もたくさんある。クローゼットにまだある。母の使ってたベッドの支柱には、いまだにレイが掛けてある。フラ教室に通うためのハワイ柄のカバンには、練習で使う振り付けの紙や曲の歌詞の書いてある紙、ハワイ語の意味を書き込んだ母のメモなどがまだ入ってる。

 

母は、職場のポジションが朝早く出ていかないといけないものに変わったのをきっかけに、レッスンの枠が夜であるフラ教室に出られなくなってしまって、教室を辞めてしまった。レッスン仲間は楽しい方々で、辞めてからも連絡は取り続けていたみたい。

 

遅くなってしまったけど、その人たちに連絡を取るべく、残されていた資料からフラの先生に連絡を取り、レッスン仲間の方々に母の状況を伝えることに成功。母は病気の発症から長く経たないうちにケータイの文字もうまく打てなくなり、手当たり次第に人に電話をかけまくってしまうので、ケータイを解約してしまい、音信不通になってしまっていた。もう一度繋がれて、よかった。

 

今日は、その時に誘ってもらった発表会へ、せっかくなのでクローゼットから適当に、洗いやすそうなフラの衣装を選んで、胃ろうからの昼ご飯のあとに急いで母に着せ、私もせっかくなので母がハワイで買ってきたTシャツとフラのスカートを身に着け、家族で見に行った。母の首にはレイをかけた。

 

母は目が開かないことも多いけど、フラの舞台の間はしっかりと両目を開けてステージを観ていた。フラの先生も、一番前の特等席に車椅子を誘導してくれて、こんなにVIP待遇でいいのかと恐縮しっぱなしだった。

先生とレッスン仲間、母は感動の再会。母はリアクションできないし何も喋れないし身体も動かないけど、泣いていた。皆さんは泣きすぎて舞台用のつけまつげが取れていた。

私は、泣き崩れるといろいろと内側から崩壊しそうなので、記念写真の撮影に徹する。

 

7月には、フラの仲間が、なんと母の通うデイサービスへわざわざ踊りを披露しに来てくれることになっている。

 

子供依存で心配だった母だけど、少しは自分の人生を楽しんでいたのかなと思うと少し救われる気がする。

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